自由ってなんですか?
「なんでも好き勝手できることが自由」
なるほどなぁ。
私は楽を極めようとしているのですけど、「自由」も少し「楽」に関係していると思うのですよね。
「自由」という「楽しさ」を極めるに当たって、「なんでも好き勝手できること」が極まった先にあるものって、なんでしょうか?
【目次】
- ■ 「なんでも好き勝手できること」を極めると
- ■ 「足るを知る」Navy Blueさんのコメント
- ■ 自由とは
- ■ ブログを自由に書くということは、好き勝手書くことではない
- ■ 「ブログを自由に書くということは、好き勝手書くことではない」参考URL
■ 「なんでも好き勝手できること」を極めると
果たして極めていくことができるのか問題もありますけどねぇ。
自分の好きなものを買う。好きな物を手に入れる。
そういう好き勝手をしていくと、私の経済力では即、天井が見えます。
いや、底をつくといった方が合ってるか。
自由にクレジットカードを使っていると、怖ろしい請求がやってきて首を絞められることになります。「超不自由」の到来。
それを知っているからこそ、不平不満愚痴文句悪口弱音泣き言で、
「もっと自由にお金が使えたらなぁ」
なんて思っちゃう。
お金は使えば使うほど使いたくなるので、欲望は留まるところを知らないのですが、仮に無限に使えるとして、どう使うのでしょう?
「オーダーメイドのスーツ買って」
「ほうほう、それでそれで?」
「高級な時計買いまくって。毎日つけかえできるように」
「それからそれから」
「ブランドの鞄、靴、財布、何から何まで調えて」
「まだあるよ?無限にお金あるもん」
「超豪邸を都会の一等地に構えて」
「えぇそんでそんで?」
「地球一周旅行!いや宇宙旅行!!」
「お土産いっぱい買ってきてあげな!そんで?まだあるよ??」
「えええっと、えええっと・・・」
無限に使えるお金があるのは、とっても素敵なことだと思う。
それって「自由」かもしれません。
でも、よくよく考えると、「満足できない心」を持っていたら、きっと気づけると思う。
物買って、物買って、いい物食べて、旅行して、遊んで遊んで、それが当たり前になって、そこで幸せ感じられるんでしょうか。
きっと、さらに「無いもの」を求めてしまうと思う。
友情だったり、愛情だったり、子どもと過ごす時間だったり、金持ちになろうがなるまいが、そのとき持っていないものを求めてしまうんでしょうね。
お金で解決できないものを切望してしまう。
「永遠の命」とか。
叶えられないことへの切望こそ、「不自由」ではありませんか?
「お金」のジャンルで空想してみました。
空想の世界、妄想の世界に浸ってロールプレイしても、「好き勝手にできる自由」の先には、面白いことに「不自由」がありそうです。
「人間関係」のジャンルで空想しても同じです。
現実では、好き勝手に自由にふるまっていると、いずれ周りから総スカンをくらいます。
「超不自由」
空想で、なんでも相手の心を意のままに操れる状態にできたとしても、そこに訪れるのは虚しさ。空虚ですよね。相手を人として見れる自信がありません。
何の人間ドラマも生まれない、主人公の意のままに物事が進んでいるだけの小説なんて読みたくもない。面白くない。
空虚で面白くない人間関係こそ、「不自由」極まりないでしょ。
「なんでも好き勝手できること」そんな自由を極める先に待つのは「不自由」です。
現実の世界ってやさしいよねぇ。
けっこう、早くに教えてくれるもん。そのこと。
空想の世界だと、けっこうめちゃくちゃやらないと気づけないよ?
ここで疑問が生まれてきますよね。
「好き勝手できる自由極めたら『不自由』になる。じゃぁ『自由』ってなんなの?」
■ 「足るを知る」Navy Blueさんのコメント
コメントへの返信っぽいものを記事にしていくスタイル♪
Navy Blueさんはアイデアホイホイを愛してくださっているので、読んでくれるものとしてこっちに書いてます♪(私信)
【引用】足るを知る者でありたいと思いながら、現実は遠く。
【出典】「生きる意味を考えドツボにハマる私」へのNavy Blueさんのコメント抜粋
ぜんぜんコメントの返事になってないんですけど、「足るを知る」って私の人生のテーマなんですよね。
「楽を極める」「謙虚になる(足るを知る)」「感謝する」「幸せである」ですから♪
謙虚さ、足るを知ること無しに感謝も幸せもないかなぁって感じ。
今の奥さんにフラれたとき、京都の龍安寺に心を落ち着けにいきました。
写真は、そのときのお土産です♪
京都に行った目的は龍安寺の、「我唯足知(われただたるをしる)」の蹲位(つくばい)が見たかったから。ただそれだけ。
なつかしいなぁ。。。我唯泣いてたっけ♪
この「我唯足知」は仏陀さんの教えですよね。
足るを知っていたら、貧しくても富んでいる。逆に足るを知らなければ、富んでいたとしても貧しいのだ。
空想RPGの行き着く先に似てませんか。
不満足ゆえに出発した「お金無限思考」。その自由の行き着く先は「不自由」。
そのことを教えてくれるのは、他ではない、出発であったはずの不満足さ「満足できない心」なんですけどね。
Navy Blueさんが一つの答えをくれたような気がします。
■ 自由とは
不自由さを感じさせている根本の原因は、「満足できない心」つまり、足るを知らない不足の心です。
ということは、自由を極めるには・・・真の自由を手に入れるにはどうしたらいいのか。
「好き勝手したい心」から自由になるしかありません。
青い鳥のようなお話ですね。
探し求めて外に旅だったのに見つからない。
へとへとになって帰ってきたら、青い鳥は家にいた。
「好き勝手したい心」を手放すことで、どうやら人は自由になれるようです。
その最も中心にある教えが、仏陀さんの「我唯足知」ですね。
■ ブログを自由に書くということは、好き勝手書くことではない
「誰も読まないブログに価値はない」というのは「あり得ない」!!
なんてことを記事にしたのですが、次のものも真実だと思います。
「ブログを自由に書くということは、好き勝手書くことではない」
「好き勝手書きたい」という心から自由になることが「自由」でしょうね。
ただ、私の周りには「好き勝手書きたい」人よりも、「読み手に有益な記事を書きたい」という心から、逆に「書けない!」って人の方が多い。
「もともと好き勝手なんて書けないよ!」
って感じですよ。
そういう人は、その強烈な「読んでもらいたい」という心から自由になることが「自由」ですね。
「好き勝手書きたい心」からも「読んでもらいたすぎる心」からも自由になるのが大事かなって思います。
■ 「ブログを自由に書くということは、好き勝手書くことではない」参考URL
ideahoihoi.jp
↑Navy Blueさんのコメント
www.ryoanji.jp
↑龍安寺の蹲位
ideahoihoi.jp
↑読まれないブログの価値についての記述