【目次】
■ 多いは正義?
学級の中で子どもたちが話し合いをしています。議題は、
『お楽しみ会で何をする』
みんなが楽しめたらいいのですが、1つのことをやるとなるとそうもいかない。
多少我慢をする人たちも出てくるのが世の常。
「意見はもうない?そんじゃ、この中から多数決で決めていい?」
話し合いを仕切っている子がみんなに声をかけます。
出た、『多数決』。
「多いは正義」そういうのに慣れきっちゃってるんだよな、私たちって。
ふと、そんなことを考えていると思考がどっかにとんでいきました。
■ 多くの人が認めるものは「いいもの」?
「モノの価値を決めるのも多数決」そんな気がしませんか。
たくさんの人が賞賛するものは価値がある。
「ランキング一位の書籍は面白い」
「たくさんの人が使うスマホは使いやすい」
「多くの人が認めるブランドを身につけると気分が上がる」
これ、全部自分に当てはまっていて笑ってしまいます。
高瀬は、ブランド大好き。
悪いなんて決して思いません。
たくさんの人が渡って大丈夫な吊り橋なら、自分だって渡るもの(!?)
「多くの人が認めるものは、いいもの」
きっとこれは「正しい」。
でも正しいからこそ落とし穴があると考えています。
■ 考えることをやめる弊害
自分で考えることをやめてしまう。それが落とし穴です。「どのパソコンが使いやすいのだろう」
自分にとって、悩む必要もなく、さっさと決めてしまえばいいことなら問題ないんです。
さっさとパソコン買って、どんどん使って仕事していく。
そういうことなら問題ないと思います。
でも、自分が大切にしていることならどうでしょうか。
「大切なあの人へのプレゼント」
結果、ブランドものを選んだり、ランキングに左右されたものを選んでしまってもいいのですが、
「あ、これ売れてるの?良さそうじゃん。ポチ」
なんて、簡単に決めてしまってはもったいない。
相手への想いは、命である自分の時間をどれだけかけるかで決まる、なんていったりもしますから。
■ 自分の好きが分からなくなる
最も残念な落とし穴がこれですね。「自分の好きが分からなくなる」
誰かが評価するからとモノを選んだり、行動や体験を選択したりしていると、自分が本当に好きなこと、本当にやりたいことが分からなくなります。
昔、自分が感じたことを面白おかしくホームページに書いて、それを友だちに読んでもらい、BBS(掲示板)で交流するのが好きだったんです。
でも、いつしかアクセス数ばかり気になって、「誰かにとって役に立つことを書かないと意味がないな」なんて考えるようになりました。
間違っていないんですけど、どうも、そこに自分の存在がなくなってしまい、、、
「あれ?俺って何がやりたかったんだっけ」と。
SNSなどでも、同じことが起こっていますね。
「承認欲求」に荒れ狂う心は、自分が本当に好きなことをないがしろにしてしまった結果、現れ出るサインでしょう。
本当に好きなこと。
それは、人の評価なんか関係無しに
・自分が好きなこと、
・自分がやりたいこと、
・自分が好きな相手なのだから。
■ 好きなものを思い出す、見つける第一歩
一周回ってきたような気がします。結局、本当に好きなものを思い出す、見つける第一歩ってなんなのか。
理由なく、無条件で、自分のことを愛すること。これにつきます。
誰かの評価なんて関係ない。
「あの人がとか、多くの人がとか、所属する団体がこれを好きだから」を置いておく。
自分は自分を愛している。その状態を作り上げ、心の内を見つめていく。
そうすると、
「これ、好きなんだよね」と思い出し、
「あ、好きだわこれ」と見つけられると思います。
人のことは気にせず、自分で自分を愛するところからはじめてみてください。