[caption id="attachment_2343" align="aligncenter" width="500"] 「俺だって本気を出せば笑えるよ、でも…」
「いつやるの?」
「今じゃない」[/caption]
■ 本気になれない
自分の出しうる力を全部使って部活に打ち込んでいる。 そんな姿は美しく、輝かしいものですが、人によっては…というよりも、自分の心持ちによっては、うらやましく感じたり、ひどい場合には疎ましく思ったりもします。
「何を頑張ってるんだろうね、あんなに一生懸命…バッカみたい」
一生懸命をバカにする人を、あまり好ましく思ってはいませんでしたが、本気になれない自分の一面を目の当たりにし続けた後は、他人の一生懸命を、どうにもこうにも受け入れられない人の気持が少しだけ判った気がしています。
とは言いましても、
- 高瀬がなぜ一生懸命になれないのか?
- 高瀬が一生懸命な他人をうらやましく感じる理由
ですので、かなり偏った考えかもしれません。
あなたに当てはまるかどうか判りませんが、まぁ一つの考え方ということで参考にしてみてください。
他人の一生懸命がうらやましく見えてしまうのは、自分が一生懸命になれないから。 では、なぜ一生懸命になれないのでしょうか?
■ 一生懸命になれないのは、可能性を残しておきたいから
中学生、高校生の時、定期試験がありました。 中間テスト、期末テスト、総合テスト…
そのたびごとに赤点。
勉強には一生懸命になれなかったのですね。 母親がかけてくれる言葉は、
「あんたはやればできるのにねぇ…(どうしてやらないの?)」
その言葉の裏の声を括弧で表現してみました。 勉強、してませんでしたから、母親の真意は当たっているのではないかと思います。
テニスだけは中学高校、一生懸命やっておりました。 でも大学二年生のときは…本気とはいえないのだろうな、あの頃は。 大学一年のとき、団体戦の大きな大会で、大学名をしょっての試合がありました。無様に負けてしまい、その挫折で…といえば聞こえはいいですが、今思えば、中学高校と勉強しなかった理由と同じ気がします。
正規の学校の先生になろうと思えば試験が存在します。 そ、教員採用試験。
毎年毎年落ち続けています。
ここでも本気になれません。 やっぱり理由は同じ。
一生懸命になれないのは、可能性を残していたいから。
「どんな可能性を残していたいの?」
それは、母親の言葉に現れています。
■ 本気にならない、一生懸命しないことで残される可能性
「あんたはやればできるのにねぇ…」
やればできる。やったとしたらできる。本気になったらできる。一生懸命やればできる。
この可能性を、どこかで残しておきたいのです。僕は。
そう思うようになったのは、母親のせい…ではありません。以前はそう考えていましたが、自分のせいです。
この可能性にもたれ掛かって、なんとか挫けず折れずに過ごしてきたのですね。一生懸命にならないでテキトウにこなしながら。 適当ではなく、まさにテキトウに。
「一生懸命は格好悪い」
というのは、僕の場合、一生懸命やって赤点取る、本気でやって試合に負ける、手を尽くして採用試験に落ち 「お前は教師になる資格がない」 と言われるのが格好悪いのです。
本気の自分が挫折するのがこわい… まるで自分には価値がない気がして。
だから、一生懸命にならず、中っくらいの自分で戦い、「切り札を使わぬままの負け」というものを受け入れるんです。
それなら受け入れられるから。 可能性を残したままの負けの方が、ボロボロの挫折よりも心地よいから。
■ 結局、つきつめると自分を受け入れていない
ここまで述べてきた「可能性(やったとしたらできる)」というのは、やっていないのだら幻です。
その幻にすがってしまうのは、きっと僕が本来の自分の力、能力、…とにかく自分自身を受け入れていないのでしょう。
「負け」という結果にこだわり、挫折におびえ、他人からの評価に敏感なのは、等身大の自分を受け入れられないから。 だから幻の「やればできる自分」であり続けたくなってしまうのですね。幻の自分…か。
自分を受け入れてあげるのが一番最初な気がします。
「やればできるんだ」
なんてポジティブに言い聞かせるのではなく、できないならできないなりの自分を受け入れてあげる。
その土台ができれば、一生懸命や本気になる勇気がわいてくるかもしれません。
一生懸命になれないのも、本気になれないのも、勇気がないだけなんだな。…僕の場合。
あなたは、どうですか?