アイデアホイホイ〜3分のヒマつぶし

入れて出す、3分間・・・アイデアを、だよ?

アイデアホイホイセイレーン

無我とは

■ 無我とは

無我とはなんでしょう。 「我」というのは「自分」という意味ですので、自分というのは無いという意味でしょうか? それとも「我」を「自身の思い、願い」と読んで、願いを持たないということなんでしょうか?

よく判りませんので、これは辞書です。

【引用】むが【無我】 1.私心・我意のないこと。無心であること。 2.仏教の根本思想の一つ。万物は現象として生成するだけで、絶対不変の実体は存在しないとすること。 【出典】大修館書店『明鏡国語辞典
【引用】むが【無我】 2.我(われ)を忘れてすること。 3.〔仏〕我(が)の存在を否定すること。我は人間存在や事物の根底にある永遠不変の実体的存在(アートマン)。無我は無常・苦と共に仏教の根本思想の一。 【出典】岩波書店広辞苑

無心であること、というのは判りやすい気がします。でも、明鏡の2番目や広辞苑の3番目、仏教的な意味での「無我」ってよく判りません。 そこは専門家に聞いてみましょう。

■ 仏教での無我とは

【引用】無我とは「自分は存在しない」という意味ではなく、「自分は完全に独立した主体ではない」という意味です。 【出典】アスペクト 『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』 著:ティク・ナット・ハン 訳:山岡万里子

遺伝子は親から子へ受け継がれていきます。 その情報全てを受け取って、子は生まれてくるのですね。 子の細胞全てには親の遺伝子が含まれています。 息子の中に自分が生きている。そして自分の中には親が生きているのです。 そう考えると、決して人は完全に独立した個ではないということが判ります。

【引用】息子のすべての細胞に父親が存在しています。父と息子は同一人物ではありません。だからといって、まったく別個のふたりの人間というわけでもないのです。(中略)息子が苦しめば、父親も苦しむ。そしてその逆もあります。息子に対して憤るとは、すなわち自分に対して憤ること。父親に対して憤るとは、すなわち自分自身に憤ることなのです。 【出典】『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』

どんどん先祖を遡っていけば、目の前にいる人の中に、自分の一部を見つけることができます。 一番最初の先祖まで遡れば、その人は自分の中に生きており、目の前の人の中にも生きているんです。 あなたは私で、私はあなた。

■ 「無我」の思想で生活してみる

あいつだけずるい!」 「なんで俺だけこんな目に…」 苦しみの形の一つに、こんなものがあるのではないでしょうか? こういった苦しみがどこから生まれるのかというと、「比べる」ことからです。

【引用】人間の苦しみの多くは、自己と他人の区別、それに独立した自己という概念から生まれます。 【出典】『あなたに幸福が訪れる禅的生活のこころ』

独立した個であると考えるからこそ、隣と比べるし、競うし、争うのですね。 比べ、競い、争うからこそ苦しい。 もともとの区別が無ければ、比べることはありません。よって苦しみも生まれません。 「無我」の思想を実践するためには、逆から行けばいいのだと思います。 そう、比べるのをやめる。 比べることを一つ一つやめていけば、区別も一つ一つ少なくなっていきます。 そうしているうちに相手の喜びを、 「あいつだけ…」 なんて嫉妬することなく、自分のことのように喜べるようになるかもしれません。 人の悲しみにふれ、我がことのように祈れるのかもしれません。 思いやりは、比べないこと、「無我」の思想から生まれるのでしょう。 ホ・オポノポノの教えの一つに、「周りに起こっていること全ての責任は自分にある」と考えることがありました。 あなたは私、私はあなた。無我であるなら、問題の責任も無理なく受け入れられるのかもしれません。そして、その人にホ・オポノポノを実践するのでしょう。 ありがとう、ごめんなさい、ゆるしてください、愛してる… 何か今回の記事に繋がるところがあるような気がしますので、参考にしてください。 (参考「ホ・オポノポノの教え」) 本日もありがとうございました。