アイデアホイホイ

とある先生、学びの記録(肺炎療養中)

今ここにあなたはいますか?


■ 体を洗ったか思い出せない

お風呂場、シャワーを浴びながら、独り言。

「あれ?体、洗ったっけ?」

たった今、頭をゴシゴシしばいていたから、シャンプーはした。
ヒゲは綺麗になっているので、洗顔も終わったのだろう。
体?からだ??体は洗ったっけ?
どうにも、体を洗ったか思い出せない。
ボケたか?と言われればそれまでだが、他は覚えていたのだ。
なぜだ?
考えるも答えが出ぬまま、二度目か三度目か分からない体洗いをはじめる。

いや、覚えていないのは、体を洗ったかどうかだけではないなと、ふと気づく。
横の湯船につかっていた息子が声をかけてきた。

■ 心、ここに在らず

「お父さん、今日の給食何だった?」

私は小学校教員。
小学生の息子が昼に給食なら、私も給食なのだ。
同じ学校に通っているわけではないので、こんな会話が成立する。

しかし、自分が今日食べた給食が思い出せない。

「なんだっけ・・・」
「えぇ!思い出せないの?ボクは・・・」

息子の話を聞きながら、自分の給食がなんだったかを考えている。
やはり、思い出せない。

だが、思い出せない理由が分かった気がする。

「お父さん!話、聞いてた??」
「あ、ごめん!何やっけ?」

心が、そこになかったからだ。

■ 「念」という字

「念」は、今の心と書く。

心を未来におき、先のことを心配していると不安で心が揺らぐ。
心を過去におき、昔のことを反省していると後悔で心が揺らいでしまう。

今、心をここにおき、今の瞬間に注意を払って生きる。
そうすることで、心の揺らぎが少なくなり、安定して、心が落ち着いていく。

これが「念じて生きる」ということ。

目の前の息子の話を聞くことなく、自分の給食のことを考えているのは、心ここに在らずだ。
そもそもの給食の時間は、「午後の授業はどうしようか」と先を案じて不安になり、心ここに在らずだったのである。

体を洗ったかどうかを忘れているときも同じ。
未来か過去か。
どこかに心がいってしまっていた。

りっしん偏が表す「心」と「亡」くすを合わせると「忙」しいとなる。
心を亡くした状態は、なんともせわしない。
その状態は「今」に「心」をおけない、自分が作り出していた。

■ 今に心を向けて

「もう!ちゃんと聞いてよぉ」
「ごめんごめん、もっかい教えて!」
「しょうがないなぁ。今日、『ミノムシポテト』っていうトンデモメニューが出たの」
「えぇ!ネーミングがちょっと・・・」
「でもお父さん。めっちゃウマい。」
「え?めっちゃウマいの?虫なのに?」
「馬鹿ウマい。馬だけに」

今に心を向ければ、忘れていた、見落としていた何かに気づけるのかもしれない。

あなたの心は、今どこにありますか?