これの続きです♪
ちなみにこの質問から。
強制収容所まで話を飛ばしましょう、というところからですね。
■ 強制収容所でも、自分の尊厳を守るかどうかは…
【引用】収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。
【出典】株式会社みすず書房『夜と霧』新版 第40刷 P111 著:ヴィクトール・E・フランクル 訳:池田香代子
強制収容所。想像を絶するいたぶりにあう。
罵倒され殴りつけられ、人としてではなく、家畜のように扱われる日々。
ダメだ。想像を絶するって、想像できない。こわい。
1日ともたず、私なら、負けちゃう。
でも、そんな中で、心の自由を保つことができた、自分の尊厳を傷つけられることなく存在できた人たちがいたらしい。
【引用】このような高みにたっすることができたのは、ごく少数のかぎられた人びとだった。収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な価値の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人びとだけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靱なのだということを証明してあまりある。
【出典】株式会社みすず書房『夜と霧』新版 第40刷 P114 著:ヴィクトール・E・フランクル 訳:池田香代子
どんな厳しい環境にも、自分の内面の自由は奪えないらしい。
どんな冷酷な親衛隊に何をされようが、自分の心の中は自分だけのもの。
【引用】人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
【出典】株式会社みすず書房『夜と霧』新版 第40刷 P111-112 著:ヴィクトール・E・フランクル 訳:池田香代子
心のありようを決められるのは、自分だけ。
自分の尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決められる。
なんと心強い言葉でしょうか。
■ アンチコメントで傷つくかどうかを決めるのは
「アンチコメントによって、尊厳が傷つけられた」
私はいつも正当化してしまいます。
「アンチコメントされたから傷つくのは当然」
正当化というか、正当に思える。
酷いもんね。理不尽だもん。
でも、尊厳を守るかどうかを決めるのは自分だから、どうもこういう心理になっているときって、
「私の尊厳はすでに傷つけられた」
と考えているけど、
「尊厳守るのやめた。だからアンチコメントで傷つくことにする」
って自分で決めているみたい。
認めるの結構きついよね、これ。
ただ、強制収容所では、ほんの一部の人しかなしえなかったことだけど、アンチコメントレベルだったら、できる人も増えるかもしれない。
「そんなことで傷つくわきゃぁない。」
とっても勇気がいるけど、ちょっとやってみました。
■ 「傷つくかどうかを決めるのは自分」と認めるとあらわれる力
不思議と力がわいてきました。
「どうしようもない」と思っていたことに手が届いた感じ。
動かし方も何も分からなかった乗り物の、ハンドルが出現したような感じ。
他人のせい、環境のせい、アンチコメントのせいにしていたときは、自分には何もできません。
本当にそうでした。
まさに「されるがまま」。
できることといえば、悔しがること、悲しむこと、自分を哀れむことだけです。
でも、「自分の尊厳が傷ついたかどうかを決めるのは自分」と認めてしまうと違う。
自分の尊厳の有る無しが、自分の手中に戻ってきます。
「あなたに私の尊さを傷つけることはできない」
そんなコメントごときで、自分の価値が堕ちるわけがない。
そう自分の考えを書き換えることができました。
ただね。
昔を思い出しているだけで、リアルにもらったわけじゃないからできたのだけど。
う~ん、あなたはできそう??
失敗したくらいで私の尊厳は傷つかない。
罵倒されたくらいで私の尊厳は傷つかない。
アンチコメントごときで私の尊厳は傷つかない。
あはははは♪レベル高いですね。